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貞観政要  原田種成著 明徳出版 より

30、旱害を自己の責任として人民の救済に努めた


貞観二年に、関中の地方に旱害が起こり、非常な飢饉となった。そのとき太宗が侍臣たちに言った、「雨や日照りが、うまく調わないで、水害や旱害が起こるのは、すべて、人君の徳に欠陥があるからである。私の徳が修まらないのは私の不徳であるから、天は当然私を責めるべきである。人民たちは何の罪があって、こんなにも、ひどい困窮に会うのであろうか。中には、かわいいむすこや娘を売る者さえも有ると聞いている。私は非常にそれを気の毒に思う」

 そこで御史大夫の杜淹を派遣して、旱害のひどい地方を巡回調査させ、宮中のお倉の金や財宝を出して、売られた子どもたちを買い戻し、その父母に返させてやった。

解説

古代のシナ思想では、天子及び宰相は、陰陽を調える、つまり、天候を順調にすることを自己の職責と考えていた。そして、天子は、天帝の意志を代行して、地上の万民が平和で豊かに暮せるように、努力しなければならないものであると考えていた。だから、もし、天子が自己の欲望を満たすために、万民を苦しめ犠牲にする政治を行なっていると、天帝はまず天子の反省をうながすために警告を与える。それが、旱害・洪水・地震・流行病などの天災地変である。ところが、そういう天の警告があっても反省して改めなければ、天帝は、その人間から天子の地位を奪って他の人を天子として命ずる。それが革命、つまり天の命、が革まることだと考えていた。だから、この時の唐の太宗も、非常な旱害を、自己の徳が修まらずして、人格に欠点があるからだと考えたのである。

 太宗が、旱害をもって自己反省し、何か政治上に欠陥がありはしないかと考えたことは、りっぱな態度である。しかし、後世は、そうした、旱害・洪水・地震・疫痢などが起こったときには、祈祷をしたり、年号を変えたりするという、形式的な行事が行なわれるようになり、わが国の中世にもそれが盛んに行なわれ、為政者が反省するということは全然なされなくなった。

 現代人は、「そんなことは、ばかげた非科学的な考えである、旱害や洪水・地震などは、自然現象の一つに過ぎない」という。たしかに、天災地変が起こったときに、祈祷をしたり、年号を変えたりすることは、非科学的である。だが、そういう災害が生じたとき、統理大臣をはじめとして、担当各大臣が、現在の政府の施策に、何か欠陥があるのではなかろうか、行き届かない点があるのではないかと、斎戒休浴して反省するための、一つの手がかりとすることは、決して非科学・非文明的な行為ではない。現代の為政者に最も欠けているものは、直接に自己の責任とは思われないものでも、その事象をもって政策全般の反省の手がかりとする、というような謙虚な誠意をひとかけらも持ち合わせていないという点である。

 官僚は、いかに明らかな失政があっても平然として、上級のポストに栄転してその責任を問われることなく、大臣諸公は、日本の災害の殆んどすべては、天災ではなくして人災であるにもかかわらず、不学無術、無為無策にして、何等なすところがないのが実情である。これは、今の当路者ばかりではなく、いわゆる、進歩的学者と称するやからも、皆同然である。一例をあげれば、数年前に、盛んに宣伝された中共での米の大増産ということがあった。あのころ、中共式方法によって、反収二百石三百石の大成績をあげたということが続々と報告された。技術の高い米作日本一でさえ、反収十石そこそこである。二十石、三十石ならばまだしも、二百石、三百石というのは、どのような方法をもってしても驚異的な数字である。しかも現地をおとずれた日本の進歩的農業学者が、その稲の上に乗っている写真まで入れて中共側の数字を保証していた。しかし反収三百石の話は、その後全然聞かれなくなっている。そのとき、他の耕作地で実った稲を大量に移植しておいた中共のインチキを見破ることができず、先方の宣伝に利用された不明を謝したという話も聞いたことはない。責任を取らないという点では、政治家も進歩的学者もすべて同じである。

人間というものは、最善を尽くしたつもりでも、うまく行かないことがある。だから、洪水があっても、旱害で水ききんが起こっても、それを、あるいは自己の政治に不十分なところがあるために、天が戒めを与えたものとして受け取り、静かに反省するという態度を、唐の太宗から学ぶことは、今日でも大いに意義があることであると信じる。【原田種成】