新・地震学セミナーからの学び
12 瓜生島沈没ー日本のアトランティス物語
瓜生島沈没
ニュートン 1991 Vol.11 No.9 より
解説文には「戦国時代に南蛮船の港町としてさかえ、地震により一夜にして別府湾に沈んだ瓜生島」、とあります。古地図を見ると、南本町、中本町、北裏町という町名まで載っています。「豊府聞書」という書物によると沈んだ状況は次のようです。

瓜生島は府内の海に面し、日本各地の船で昼も夜もこみ合う大きな港町であった。この島は府内の町から31町40間(約3、5キロ)、現在の大分市塾豪町の北20余町(約2.2キロ余り)にあった。

慶長元年(その年の1O月に元号がかわったため正確には文禄5年、1596)閏7月12日午後2時すぎ(または4時ごろ)諸国に大地震があって、土地が裂けたり山くずれがおきたりしたが、しばらくしてやんだ。住民がようやく安心していたところ、海が鳴動をはじめたので,人々は四方に逃げ、山野に避難した。府内の町でも水難をおそれた人々が高台になっている勢家町に集まった。

瓜生島の古地図 幕末期の「豊陽古事談」に描かれたもの。 図中にある地名で現在の地図にもある村名や、神社を赤色で記入してみましたが、かなり残っているのが分かります。府内とはお城があった地名で、府内城と呼ばれるようです。青字で示しておきました。浜野一彦先生の「地震のはなし」のなかで、「瓜生島は二つの島よりなり、12の村があって、千を越す住民がいた」と書いてありましたが、その話が、かなり信憑性のあるものに思えてきました。二つの島とは瓜生島と久光島のことでしょう。それ以外にも、無人の島が幾つか消え去ったようです。現在の別府湾には一つも島影がないのですから。勢家村から瓜生島までは渡しで二丁半(270m)、瓜生島から久光島へは、渡しで八丁(870m)、久光島から別府方面には記入がありませんが、別の地図では陸続きになっていますし、最初に掲げた絵でも天橋立のような砂州で繋がっているように描いてあります。これから判断しても相当に大きな島のようです。十二村もあったという事は、、二つの島を合わせると、七尾湾に浮かぶ能登島くらいの島影が浮かんできます。

このとき、村々の井戸の水が急に干上がって、しばらくして山のような怒とうが海面にもり上がったかと思うと、おし寄せてきた。府内とその近辺の村々に海水があふれて家々が流没した。6時間後、水がようやくひいたあと、府内の大小の家屋は大半が倒壊、人畜の死亡は数知れなかった。瓜生島はあとかたもなく消えうせて海底に没した。

以上が沈没の状況ですが、まさに激変的に一夜にして海に消えてしまいました。アトランティスもこのようだったのでしょうか。( ライブラリー32 参照)

さてこの沈没の原因の推理に関してですが、ニュートン誌(東海大学海洋学部の調査会の推定?)は液状化現象が原因であると次のように解説しています。

再現:瓜生島沈没

調査の結果から、瓜生島沈没のメカニズムは次のように考えられる。

大分川の河口から1キロほど沖合いに砂州で陸とつながった島があった。これが瓜生島である。瓜生島の地盤は大分川の堆積物からなり水分を多量に含んだ砂質のものである。この付近から別府湾は急に深くなっている。地すべりを発生させるには十分な傾斜である。

約400年前、別府湾で直下型地震がおきた。地震と津波で島の地盤が液状化しはじめる。まず島の輪郭がにじみだし、ついには島全体の地盤が液体と同じような状態になり、海底の斜面に沿ってくずれ落ちた。

あとには砂州と島の一部が残るだけだった。この時点で何らかの理由で砂州に木柱が打ちこまれた。だがやがて砂州も島の一部も波に洗われ消えてしまった。

以上がその解説ですが、木の柱の件は、海底調査で海底に打ち込まれた木の柱が発見されているからです。液状化現象(セミナー255)とは、砂粒間の引っかかりが外れて液体状になってしまうことです。島の基盤は岩盤であるはずで、土台までが、砂丘のような砂で構成されていることは無いのではないでしょうか。なんでも液状化で解決してしまう安易な推理のように感じます。 新地震理論による推定はライブラリー11を参考にしてください。

補足1

右の図は別府、大分付近の断層を示したものです。別府湾南部の瓜生島が存在した地域には断層が存在しません。大分ー別府間の長い断層と北部の何本かの断層の間に、瓜生島、久光島は位置します。こうした断層は瓜生島が陥没した大地震で生じた断層であると考えられます。なお断層は地震の傷跡であり、地震の原因としての「活」断層という概念は、新地震理論にはありません。

「日出湊からザビエルが見た高崎山と、瓜生島・久光島を沈没させた別府湾の海面」(画像修正による瓜生島復活を近々に予定しています。ご期待ください) 写真は日出通信より
復元した島影 事務局長の念力が強すぎて巨大化したかもしれない。大久光島にはサービスで大鳥居までみえる。
事務局長に伝授された念力で浮上させた所長作の島影だが、やはり力不足の感が否めない。 そのうち修正されるでしょう。

補足2

下の図は大分の旧家である幸松家の瓜生島古地図。幸松家は瓜生島海没当時の島長だったと伝えられています。大分から別府への道は島の中を通る一本しかないことが分かります。白木とか田ノ浦の集落は孤立していたようです。また久光島は大久光と小久光が合体して描いてあります。瓜生島=沖の浜という解釈がなされているようですが、沖の浜とは大洲のことではないでしょうか。瓜生島と沖の浜とは別のように思います。これもNewton誌1991 Vol.11,No.9より転載させていただきました。(瓜生島は別名沖の浜と呼ばれていたようです。「沈島伝説」に載っていました。)

沈島伝説:土屋北彦「大分の民話」より
補足3

 21世紀地震アトラス「あした起きてもおかしくない大地震」という本に、別府湾の中央断層の話が載っていました。抜粋して紹介します。
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瓜生島の伝説が残る1596年M7.O慶長の地震・・・・は、近年行われた別府湾の海底活断層調査の結果、湾の北西奥から、湾南へと向かう別府湾中央断層の活動によることがわかった。九州を南北に引っ張る力によってできた裂け目の、北側の縁が別府湾中央断層だ。別府湾の北に対し、湾中央部がずり落ちる動きによって地震が起こる。裂け目の中央部、落ち込んだところが海水に浸されて別府湾ができた。
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解説文には納得がいきませんが、別府湾の一番北側にある中央断層を音波探査機で調査した結果に目が留まりました。湾の南側(深いほう)が垂直に切り立った感じで下がっているのがはっきりと分かります。瓜生島沈降を見事に証明する音波探査の結果にびっくりしました。

私の目には瓜生島沈降の確証と映るのですが、活断層神話を信仰しておられる方々には、原因と結果が逆に見えているようで、「この断層が動いて地震を起こした」という解釈のようです。本当は瓜生島を沈降させてしまうような大爆発で、傷跡として断層が残ったというのが正しいと思うのです。

音波探査機に映った別府湾中央断層: 南側(大分側)が大きくずり落ちているのがはっきりと解ります。海底は長い年月の間に均されてしまっているようですが・・・。
記事には、慶長地震で動いたのは、別府湾中央断層だけで、大分側の府内断層は動かなかったようである、と書いてありますが、どうでしょうか。私には、別府湾が引き領域に入って、すっぽりと陥没したのではないかと思われるのですが・・・。

大森のライヴァル的存在であった今村明恒(いまむら・あきつね)(1870-1948)は、1946(昭和21)年の論文「大宝元年及び慶長元年の陥没性本邦大地震について」の中で、大森説を批判し、瓜生島の陥没は『雉城雑誌』や『威徳寺由来記』、幸松家旧蔵記録などが描いている通りに起こったと主張している。

http://village.infoweb.ne.jp/~fwjf1899/island/10/uryujima3.html